お陰様で、来月 10 月に 100 歳の誕生日を迎えます。

今日は、百寿を来月に迎えるに当たり、ここまでの私の人生を振り返ってみたいと思います。
結核を患う
100 歳……(これ迄)健康で長生きをと、皆さんは私がさぞ健康体(だった)だろうと思われるでしょうが、実はそうではなかったのです。
17 歳の秋、肺門リンパ腺結核と診断され、それから 4 年間、療養をしてやっと健康になった身体なのです。
結核は当時としては非常に厄介な病気で、罹患した者の殆どは死亡するという状態で、非常に恐れられ嫌われている病気でした。
すぐ下の弟は腸結核でこの頃死んでいます。結核は弱い菌なのですが、それに侵されると中々治り難いのです。
私は喀血こそしませんでしたが、少し良くなったと思って無理をすると直ぐ再発します。
今は特効薬が出来て世間から恐れられなくなりましたが、当時は非常に嫌われる病気であり、病人の家の前を通る人は息を殺して駆け抜けるという様な時代でした……。
しかし、幸いなことに発病 3 ヶ月前にキリストを信じる様になっていたお陰で、この病気に冷静に対応することが出来て非常に幸せだったと思っています。

私は障害者ですから、家族に負担を掛ける日常でした。
これに病気が加わると、それ以上の迷惑は掛けられないという気持ちが働き、学校で学んだ医学知識を総動員し、また、京都に専門病院があったのでそこに 3 ヶ月入院して養生法を学び、家で実行しました。
【按摩と同等かそれ以上の効果のある ” 鍼(はり)” 】を……
お陰で 4 年掛かりましたが仕事が出来る状態にまで回復しました。
ですが仕事が出来るといっても、一般の鍼灸院の様に按摩が出来る状態ではありません。……按摩の様な重労働をしていると病気は必ず再発します。
鍼灸按摩から按摩を除けば、鍼と灸しかありません。
必然的に私も鍼を主とした仕事しか出来ない状態でした。
しかし鍼を主体にするといっても、これは学校を出たばかりの未熟な若造にとっては大変なことなのです。
こんな願望をうっかり同業の先輩に漏らしたものですから、その先輩からは頭ごなしに「そんなことを言っても、ここ(私の住んでいる市)では受け入れられないよ。その様な寝言は考えず按摩もやれよ」と言われ、笑われました。
ですが 4 年間の闘病中に何とか鍼だけで仕事を……と、色々考えて準備はしていました。
「鍼治療だけで一般の業者よりも良く効くような技術を持たなければ」と思って頑張りました。
按摩は気持ちが良いです。また鍼に比べたらそれ程痛くはありません。痛くなく気持ちが良い……それに比べたら鍼は痛いと思わがちで、実際に下手な技術では痛いものです。
私の頭の中には「鍼は按摩よりも気持ちが良く、効果も長持ちする」という考えがありました。
按摩は確かに気持ちが良いですが、施術が終わった頃には効果が消えています。
ですが鍼は効果が続きます。
普通のお風呂だと温かみはお風呂場を出れば消えますが、温泉のお湯というのは温かみが温泉を出ても続きます……それと同じ様に、鍼は効果が長持ちすると考えていたのです。

痛みがなく(痛みがあっても「痛気持ち良い」なら寧ろ良いと思っています)、鍼をさしている時は気持ち良く、その効果が長持ちする……そういう施術が出来れば最高だと思っていたのです。
病気が再発するのを何とか避け、そして自活してゆくには、必然的に「最低でも按摩と同じ位の効果がないと駄目だ」という結論となります。
ですから私はこれを目指し、日々努力を積み重ねました。
聖書の「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。」という山上の垂訓(説教)の聖句に導かれ、自分のやることで今を・未来を切り拓こうと、頑張りました。
私は好奇心旺盛でしたので、苦労も勿論ありましたが、新しいことを知り、学び、それらが何かしらの成果として結実すればそれ迄の苦労なんて何とも思わなかったですし、失敗してもそれが学びとなりました。
成功しようが失敗しようが、そこで得たことを今度は手段として新しい目標を立て、邁進しました。
だから目の前の何かしらの「ひとつひとつのこと」がとても意味あるものとして……今風に言えばワクワクするものとして……臨むことが出来たのです。
私は、修行中は福岡県飯塚市に住んでいましたので、鍼の腕を磨く為、飯塚の有名な治療院に奉公して学びました。
そこのご夫婦(お師匠様)に「空いた時間を利用して鍼をさせてくれませんか?」とお願いしたところ、「願ってもないことだ、やってくれ」と快諾され、毎日ご夫婦に鍼をしました。
このお陰で、全く未熟だった私の鍼も、3 ヶ月も過ぎた頃には奥様から「もうあなたは飯塚中の他の同業者には負けない腕になっているね」と言われる位になりました。
この評価を戴いた時はとても嬉しく、私を非常に勇気付てくれました。
当時は戦争中で出版事情も悪かったので、そこの先生が大切にされていた「鍼灸治療基礎学」を借りました。
分厚く、物凄いページ数だったのですが全部筆写しました。
これは非常に大きな財産になりました。
また、治療器具も中々手に入らず随分苦労しました。
当時、治療用の鍼は銀鍼でしたが、鋼鉄鍼しか無いというので送ってもらったところ、鍼と一緒に錆を落とすサウンドペーパーと錆止めの油もついて来たのには驚きました。鋼鉄鍼は硬いので痛みなくさせる様になるまで随分苦労しましたが、上手くさせるようになりました。……この鍼は磁気作用もあって良く効いた様に思っています。
自活の道

戦争はより激化し、両親は商売をやめて土地のある(今私が住んでいる)所へ帰郷することにしました。……私は家族より 3 ヶ月早く帰って準備をしました。
その頃、郷土の方が良く治療に来てくれました。終戦を迎えていましたが医師は従軍から未だ復員していなかったこともあり、その代役として良く使われました。
その様な状況でしたので、治療内容も多様になり、随分面白い経験もしています。
ハチに刺された者や、柿の木から落ちて踏み抜きをした者まで経験しています。
踏み抜きをした患者は中学生でしたが、余りに痛がるので鍼をしたところ、その痛みが取れました。私は「医者に行って消毒してもらうように」と指示したのですが、そのまま治ったので行っていないということでした。
この様に、私は戦中・戦後の混乱期に色々な経験が出来たので、非常に幸せだったと思っています。今の鍼灸師は学校を出てもこの様な経験は出来ないだろうと思います。
施術以外の時間は父と共に山に行ったり農作業を手伝ったりしていました。
養鶏講座を聴講したり、農業のことも随分勉強したりしました。
こんな状況だったので、戦後牧師様より縁談を受けましたが、お嫁さんに農作業はさせられないのでその縁談は断りました。
……この頃、神様から大きな恵みを戴きました。

戦争が終わって 3 年余り経った頃、11 月の温かい昼前、2 歳半になる従兄弟の長男が灌漑用池に落ちて仮死状態になっていたのを蘇生させたことがあります。
私が現場に行ってみると既に近所の古老が来て水を履かせたりしていたのですが、人ざかりに囲まれた中で老夫婦が泣きながら孫の体を擦っているのです。……触れてみると少し冷たく感じました。
私は写本で覚えていた蘇生の鍼を落ち着いてゆっくりと施しました。
しかし、この処置で直ぐ蘇生する訳ではありません。
……「もう駄目かな」と思って諦め掛けていた頃になって「おぎゃー」と泣いて蘇生したのです。取り囲んでいた皆さんも歓声を上げて喜んでくれました。多分ですが、このことが噂となって広く伝わり、結果的に良い宣伝になったと思います。
この処置は、膨大な本の中の 80 文字程度のほんの僅かな記述だったのですが、写本していたお陰で直ぐ思い出すことが出来て良かったと思っており、感謝しています。
第 2 の経験は、その頃、4 km 位離れた場所に往診した時のことです。
いつもの様に軽く揉んで鍼をしようとしたのですが、痛がって揉ませてくれません。……折角遠方まで往診したのに手ぶらで帰ってしまえば収入にもなりません。
そこで仕方なく(最初から)鍼をしたのですが、その鍼で痛みが殆ど取れて非常に喜ばれました。
この経験のお陰で、その頃から親しい患者さんにこの話をし、最初から揉まずに鍼をする様にしました。
これで鍼のみでの施術効果を確認出来る様になり、鍼の技術はかなり向上したと思います。
3 番めの幸運は1956年(昭和31年)平方 龍男先生の所で 1 週間にわたる講習を受けたことです。
平方先生とは「平方 龍男」さんのことで、以下に Wikipedia での詳細があります。
この時の講習が本当に素晴らしかったので、特にお願いして翌年も 40 日間、上京して指導を受けました。
この 2 度の受講を終え、私は自宅で施術をしながら、同時にそれまで身に付いていた鍼の悪い癖を取り除くことに注力しました。
悪い癖を直すのに 5 年位掛かりましたが、自分でも良く頑張ったと思う位に注力し、癖を絶つことで自然と正しい施術が出来る様になりました。
……以前、私を冷やかした同業者の先輩も、そのことは良く覚えていた様で「良くやったのう」と言って認めてくれました。
この頃、少し蓄えが出来たので父に貯金を頼んだことがあります。
ところが父はそのお金で株を買っていました。……その後父の口から株の話が出て来なかったので、多分儲からなかったのだと思います。
明治時生まれの人は子供が親に尽くすのは当前だと思っていた様に思います。
その後、父が「お前の収入は全部家に出せ。街に出る時には全部してやるから」と言って来たのですが、私は即座に断わりました。
何故なら、お金を全部出してしまえば私の意志が働かなくなるからです。……だから、親に頼らないで生きようとその時覚悟しました。
親の方は街に出ても仕事をきちんとするのは難しいだろうと思っていた様で、田舎にいれば小作料が入るので少し稼げば生きていけると思っていた様です。
しかし私はその様な生き方は嫌いでした。
35 歳の頃、かなり自信が付いたので街に出ようと決心し、顔の広かった父に土地を見つけてくれる様に頼みました。
実際のところ、父は探す気配もない様子だったので自分で不動産屋に頼んで土地を買いました。
その後、父は世間体を考えたのか「家は俺が建ててやる」と言ってさっさと大工を決めてしまいました。
設計には私も加わったのですが、後の支払いは全部私に立替させられました。
後でくれると言ったのですが、それは期待できません。支払いの時には妻の了解をとって全部出しました。金が無い時は宅地を抵当にして銀行から借りました。街に出たのは 40 歳の時です。
そうやって腕に自信を持ち、住処を自分で築き、今に至ります。
……正直なことを話せば、若い頃、病気になった時点で自殺を選んでも不思議ではなかった程、苦しい状況でした。
ですが、聖書と出会い、信仰により主を信じる様になって、未だ洗礼も受けていない新鮮な時だったこともあって前向きに進む道を選ぶことが出来たのだろうと思っています。
だから、病気になったこと自体も神様のお恵みだった訳で、このことを痛感すると共に日々神様に感謝しております。
生きていく為には様々な苦しみ・悩みがあります。
前向きでも、後ろ向きでも、その時間は同じです。
それならば、前向きに生きた方が良いに決まっています。
私は神の御言葉に導かれ、前向きな人生を送ることが出来ました……本当に良かったと思っており、心から感謝しています。
他力本願で、「神様のおかげ」とか「神様の救いが」とか言う人もいますが、何もしなければ当然何も起こりません。
そういう人に限って、自らは何もせず、その結果何も起きないだけなのに「神様はどうして何もしてくれないのだ、何もお救いにならないのだ」と嘆いたりします。
私は先にも引用しましたが、若い頃に聖書と出会い、その中の沢山のお言葉から心の持ちようが前向きに変わり、信仰となって頑張って来れました。
何かする・しないは私の行動そのものですが、自ら命を断つことさえ選んでも不思議ではなかったことを考えると、こういったお言葉のお陰でそれとは全く逆の、日々充実して生きて行くという道を選ぶことが出来、本当に感謝しています。
100 歳を来月に控えて……
100 歳まで長生きしようと思ってここまで来た訳ではありませんが、病気になってから日々養生し、ここまで来れました。
生きて行く為には先ず健康でなくてはなりません。だから身体に良いことを実践して来ました。
健康なだけでも生きてはいけません。
出来るだけ人様に頼らず、自活して日々を送る為に、自分の持っている技術を磨き、仕事をして来ました。
目の前の、本当に苦しくて来られているおひとりおひとりを何とかしたい……そう思うと夜中も良い意味で眠れず、色々調べたりしました。
だから「良くなったよ!」と仰って頂ける時は本当に嬉しく、幸福感に包まれます。
「最低でも按摩と同じ効果を」と目指して来ましたが、「自分の身体は按摩じゃ駄目だ。鍼じゃないと良くならない」と言って下さる方もいらっしゃいます。
……幸いなことに今も遠方から鍼をお願いしたいとお電話を戴いております。
ここまで来る間、色々ありましたが信仰のお陰で気持ちの面をクリアして来ました。
それだけではありません。
仕事に於いても、プライベートに於いても、沢山の方々と出会い素晴らしい関係を築けて来れました。
日々、出会いの連続です。
出会いとは、人との出会いは勿論、物に触れることも、機会に遭遇することも含みます。
……こういった出会いをどうするか、瞬間々々の選択が人生であり、私は良いと思ったら迷わず選択をして来ました。
成功の反対は失敗ではありません……「何もしないこと」だと思っています。
来月 100 歳を迎えます……このことに感謝しつつも、今も・その時も・その後も、今迄通り日々感謝し、日々精進しながら普段の生活を送り続けたいと思っております。

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